東久留米市と手塚治虫
東久留米市と手塚治虫

手塚治虫の足跡

東久留米市

 手塚治虫が東久留米市で生活したのは、52歳から60歳までの8年間になります。手塚は52歳の時それまで住んでいた練馬区富士見台から東久留米市に引っ越し、60歳の時がんで亡くなっています。市内には、今も手塚の家が現存し、東久留米市と隣接した新座市には、彼が60歳のとき高田馬場から移転した手塚プロの制作部門もあります。

大阪府宝塚市、埼玉県飯能市

 手塚が幼少期を過ごした大阪府宝塚市に「宝塚市立手塚治虫記念館」があり、埼玉県飯能市に「アトム像」があります。手塚にとってそれまで縁もゆかりもなかった飯能市に「アトム像」があるのは、手塚が飯能市に自宅とスタジオを建てる土地を探し求めていた時期があり、これは家族の反対で別の場所に求めることになりましたが、その後も飯能市のことが気がかりになっていたようで、「先生の代わりにアトム像を」という飯能青年会議所からの要望があったとき、これに応えたからだそうです。このとき手塚は、除幕式にも出席しています。

西武池袋線

 西武池袋線には、椎名町にトキワ荘跡地モニュメントがあり、富士見台には手塚が仕事場・自宅として使っていた越後屋ビル(現在は1階が精肉店、直営のカレーショップ、2階がステーキハウス)、飯能にはムーミンのアニメ制作を通じて間接的にかかわりのあったムーミン・テーマパークがあります。そして、東久留米には、手塚の自宅があります。

手塚治虫の評価

 我が国初の長編TVアニメーションシリーズ「鉄腕アトム」、長編TVカラーアニメーションシリーズ「ジャングル大帝」など、国際的にも高い評価を受けている作品を多数輩出し、漫画、アニメの世界において、様々な意味で、先駆者として評価されています。
 特に「鉄腕アトム」は、未来世界と、ロボットと人間の関係を予見しており、その先見性、ロボットや人間の在り方を問いかける深い視点、手塚が創作した愛らしいキャラクターたちは、漫画やアニメというジャンルを超えて、世界中の人々に大きな影響を与えたように思われます。
 また、手塚のアシスタントから独立し、後年有名になった多くの漫画家たちも、優れた作品を数多く上梓し、国内外から高い評価を受けています。

手塚治虫の生涯

 1928年(昭和3年)11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現大阪府豊中市)で、手塚粲(ゆたか)、文子(ふみこ)の長男として生まれ、治(おさむ)と命名。
 1933年(昭和8年)、5歳、兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ引っ越し、1935年(昭和10年)、7歳大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学付属池田小学校)に入学。
 1941年(昭和16年)、13歳、池田師範付属小学校を卒業、大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学。
 1945年(昭和20年)、17歳、北野中学を卒業、大阪大学付属医学専門部に入学。
 1951年(昭和26年)、23歳、大阪大学医学専門部卒業。
 1952年(昭和27年)、24歳、医師国家試験に合格。同年、すでに「ジャングル大帝」を『漫画少年』に連載するなど漫画の世界の入っていた手塚は、仕事の場を東京に移し、新宿区四谷の八百屋の二階に下宿。
 1957年(昭和32年)、29歳、都内渋谷区代々木初台に引っ越す。
 1959年(昭和34年)、31歳、岡田悦子と結婚。
 1960年(昭和35年)、32歳、練馬区谷原町(現、富士見台)に家を新築。
 1961年(昭和36年)、33歳、奈良県立医科大学で「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位を取得。手塚治虫プロダクション動画部設立。長男・真(まこと)誕生。
 1962年(昭和37年)、34歳、プロダクション名を虫プロダクションと変更。虫プロダクションの新スタジオが完成、引越し。
 1963年(昭和38年)、35歳、国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」がフジテレビで放映開始。
 1964年(昭和39年)、36歳、長女・るみ子誕生。
 1965年(昭和40年)、37歳、国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」がフジテレビで放映開始。
 1967年(昭和42年)、39歳、テレビアニメ「リボンの騎士」がフジテレビで放映開始。
 1968年(昭和43年)、40歳、マンガ製作のための株式会社手塚プロダクションを設立。
 1969年(昭和44年)、41歳、二女・千以子(ちいこ)誕生。
 1971年(昭和46年)、43歳、虫プロダクション社長を退陣。
 1973年(昭和48年)、45歳、虫プロ商事倒産。虫プロダクション倒産。
 1976年(昭和51年)、48歳、手塚プロダクションが高田馬場に移転。
 1977年(昭和52年)、49歳、急性肝炎で日本医科大学病院に入院。
 1980年(昭和55年)、52歳、都下東久留米市へ引っ越す。
 1982年(昭和57年)、54歳、トキワ荘解体にともない、天井板を取りに訪問。
 1983年(昭和58年)、55歳、母文子死去(享年74歳)。
 1984年(昭和59年)、56歳、講談社『手塚治虫漫画全集』全三百巻完結。急性肝炎、胆石で半蔵門病院に入院。
 1985年(昭和60年)、57歳、TBSテレビ「手塚治虫40年アトム大全集」放映。
 1986年(昭和61年)、58歳、イギリスの新聞『ガーディアン』の日本特集の中で、マンガ界の動向について取材される。父粲死去(享年86歳)。西ドイツのテレビ局より「ブッダ」「アドルフに告ぐ」についてインタビュー取材を受ける。ミネソタ州ミネアポリスで講演のため渡米。<第7回ザグレブ国際アニメーションフェスティバル>に国際審査員として出席。
 1987年(昭和62年)、59歳、外務省の依頼で渡仏、ナンシーで講演。<アヌシー国際アニメーションフェスティバル>に出席。<第2回広島国際アニメーションフェスティバル>開催。国際審査委員長をつとめる。外務省の依頼でカナダへ旅行、オタワ、モントリオールで講演。その後アメリカのハートフォードでも講演。
 1988年(昭和63年)、60歳、腹部にいたみをおぼえ半蔵門病院に入院。一回目の手術行なわれる。埼玉県新座市にスタジオが完成し手塚プロの制作部門が引っ越す。スペイン・バスクのエピサテレビ局がインタビューに新座スタジオを訪問。再入院。「森の伝説」でフランス・ブール・アン・ブレス青少年のためのアニメーション映画祭青少年審査員短編部門賞受賞。<第1回上海国際アニメ−ションフェスティバル>の国際審査員をつとめるため中国の上海へ、のちに北京へ旅行。再手術。
 1989年(平成元年)、60歳、胃ガンのため没(享年60歳)。

 参考文献『TEZUKA OSAMU OFFICIAL、https://tezukaosamu.net/jp/

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